
「縁」について
宇宙や、神様、仏様の領分であって、市井の占い師が分かった気になるのは傲慢ではあります。
それでも、仕事の性質上、「縁」を解明するヒントのようなものに多く触れたり、
その法則性について考える機会は多いです。
「縁」に対する自分の考察の一端をここに置いておこうと思います。
繋がっていると思えば繋がっているし、切れたと思えば切れるもの。
(巡り合わせによっては、切っても切れない、などがあるからこそ不思議です)
なぜ巡り合ったのだろうか?
「縁」が繋がった先の道は、どこに向かうのか?
切るとしたならばどこでどう切ればいいのか?どうしても切りたくないものはどうしたらいいのか?
始まりのタイミングは明確に意識しては選ぶことが出来ないのに、
終わりのタイミングは選択の余地があることも面白いものです。
ですが、始まりと同様に終わりを考えれば、
無理に終わらせる必要や意識して積極的に切ることなど本来不要なことでもあります。
勝手に切れていくのを待てばいいこともたくさんありまして、
逆に自分が納得するまで向き合うことにも、確かな意義が存在するわけです。
いずれにしましても、懸命に向き合って、生きて、時が来れば、
その「縁」の意義はいつか明確に自分の中で分かります。
占いでは、疑似統計と、量子もつれによる予測などから、その縁の意味や強度や変化余地などを明示します。
人間にとって厄介なのは、寿命があって、あくまでも制限時間が設けられていることです。
意義の無くなった「縁」に対しては時間と感情の浪費になってしまうこともあります。
更には既にその意義を果たしてしまった、あるいは変化余地の無くなった「縁」に対して、
あがくようにこだわると、ほとんどの場合、その先に大小の凶事を招くことをしばしば観測します。
流れに任せるままというのも、常に正解にはなり得はしません。流れる川の先が滝つぼなこともあるわけです。
選べるのが許されているうちならば、望む形で紡いだり、納めることが、占い師としてはひとつの理想と捉えています。
正解不正解が螺旋のような構造を取っているかのような「縁」ですが、
「良縁」に巡り合うための、唯一にして不変の答えは、はっきり分かっていまして、
「良い自分でいること」に尽きると思っています。
(過去の投稿ブログを基に加筆修正を施したものになります)